優秀賞受賞作品⑨
『 いじめはなくなりません』
                        しなやかやすし

 長く小中学生の教育かかわってきた私が、「いじめはなくなりません」などと発言するのはとても不謹慎なことかもしれません。しかし、「いじめられたと思った生徒の多くを助けることはできる」と思っています。
 また、私自身も、「いじめられている」と思ったことは数々、あります。それでも、今、こうして、元気で、明るく定年退職の日を迎えようとしているのは、自分のものの見方・考え方によるものであると確信しています。

 なぜ、いじめはなくならないのでしょう。

現在は、「いじめられた、嫌な思いをした」という訴えがあった時点でいじめの発生と認知します。そして、人とかかわりあって生活していれば、多かれ少なかれ、嫌なことは起こります。
価値観が多様化する社会において、Aさんがよいと思うことがBさんにとってもよいこととは限りません。

 例えば、AさんがBさんに机の上の整理を促したとします。「Bさん、机の上、整理したら。随分、散らかって、隣のCさんの 迷惑になってるよ」とAさん。Aさんのこの言葉には全く悪意などなく、悪意どころか、Bさんを思っての言葉でした。

 この注意に対して、Bさんはこう言います。「私はAさんに嫌なことを言われていじめられた」と、「大して散らかっていないのに片付けろと命令された。Cさんは何も言っていないのに、Cさんの迷惑になっていると激しい口調で言われた」と。

 これでいじめの発生です。「どうして?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。しかし、Bさんが「いじめられた」と言えば、Bさんにとって、これは注意ではなく、いじめなのです。百人の人がこれはいじめではないとBさんの思いを否定しても、社会的に客観的にいじめではないと判断されても、Bさんにとってはいじめなのです。ですから、この言葉をきっかけに思い詰め、自殺に至る可能性も十分にあり得るということなのです。

 では、このようなトラブルを避け、言わなくてはならないことを呑み込むようにすることがよいのでしょうか?いや、それでは、人と人との距離は遠くなるばかりで、人間的な成長は期待できません。とりわけ、中高生の皆さんには、お互いの成長のため、自分なりの考え、意見を持ち、伝えるということを大切にしてほしいと思っており、人に意見を言うことに憶病になってほしくはありません。

 こんなことがありました。私は間もなく、六十歳になります。この夏、還暦をお祝いする、中学校時代の同窓会がありました。その中で、D君は、懐かしさか、「Eは俺のこと好きだったよなあ~、赤い手編みのマフラーをプレゼントしてもらった」などと大声で話していました。私の近く座っていたEさんは、恥ずかしそうな表情をしながらも聞こえないふりをしていました。その後も、D君は、「バカだ!アホだ!」なんていう、穏やかではいられない言葉を発しながら、同窓会を楽しんでいました。その同窓会を契機に、グループラインが立ち上がり、同級生の仲間の交流が続きました。その中でも、中学校時代にからかっていたクラスメートとのエピソードや自分の近況を投稿していました。とりわけ、私に対しても、あれこれ、バカ、アホとコメントを書き込んできました。

 もう一つ、エピソードを紹介します。

 四十代の半ば、教育事務所に勤務した時の上司のことです。三十数名の職場でした。その中で誰かをターゲットとし、その人を他の職員の前で蔑むことを繰り返す方でした。そのことで、職員に恐怖心を与え、逆らえない雰囲気を作り、組織を固めるという方でした。

 各部署のリーダーが集まる会議では、私の発言する間、不機嫌な表情を浮かべ、会議の終わりには、業績が上がらないのは私のせいだと罵りました。時には、「燃えるゴミの中に空き缶を捨てたのはお前の部署のものだ」と私を上司の部屋に呼び、二時間に渡り、立たされ、「ついでに言うけど……」とあれこれ、強い口調で指導されました。

 職場の親睦でカラオケに行くと、「『昭和枯れすすき』を歌え」と言われ、「淋しさに負けた、いえ、世間に負けた……」と歌い出すとゲラゲラと笑っていたのです。同僚の多くが私の姿を見て、こうはなりたくないと思ったことでしょう。

 この二つエピソードに共通しているのは、両者共に自分の価値観に従っての言動であり、いじめている自覚はないということです。

 同級生の表現は、親しみの現れだったのだと思います。

 上司は、組織が業績を上げるために私を指導しているつもりで、悪いのは私なのです。二人共に、いじめている自覚などありません。

 「いじめをやめましょう、いじめは絶対に許されない」と社会は多くの機会に、様々な方法で啓発しています。しかし、いじめている自覚、自分がいじめの加害者であるという自覚がない人にとって、この啓発はいくら声高らかに訴えたところで心に響くわけはないのです。

 こんなことを書いている私自身が無自覚に人に嫌な思いをさせ、いじめられたと思われているかもしれないのです。SNSにおける誹謗中傷についても、自分の正義に基づいての発言であり、悪気がないものもたくさんあるでしょう。

 無自覚に人に嫌な思いをさせてしまうことは、日常に起こることなので、「いじめ」はなくなりません。

 併せて、これだけ「いじめはよくない、絶対許されない」と何年、何十年と言われ続け、多くの人がそう思っていながら、悪意をもって、人に嫌がらせをする人がいるのですから、現状の対策では、いじめはなくならないと私は考えます。

 いじめはなくならないとすれば、どうすればよいのでしょう。このような嫌な気持ちから解放され、自殺などという最悪の状況を回避できるのでしょう。

 私は『しなやか』に強く生きることだと思います。

 そのための一歩は、生きていれば、嫌なことはある、嫌なことをされることもあると理解することです。日常から嫌なことはないと思っていると、心の免疫が弱まり、傷つき度合いが深くなります。当たり前に嫌なことは起こる、されると思っていると、冷静に、適切に問題を対処できると思うのです。

 先の同級生の例で話をすれば、「バカだ、アホだ」と言われ、強烈に嫌な思いをしました。嫌な思いに対する免疫力がなければ、嫌なことを言われたと落ち込むこともあったかもしれません。しかし、免疫力があると、「彼は寂しい人間」と彼の言動を分析し、嫌な気持ちから解放されることができます。「彼は、未だに中学校の人間関係を引きずっているのだ」、「彼は、これまでよい出会いがなかったのだろう」などと分析し、無自覚に言ったりやったりしているのだから、「仕方ない」と許すことができます。そんな心の余裕ができると、彼に「嫌な気持ちをしたよ」と柔らかに伝えることもできました。

 上司についても同じです。いじめ的にパ原的に、組織作りをする人だと理解することです。職場の中で、笑い者にするような悪意もあり、多少の辛さはありますが、「それなりの地位についた人なので、それなりの努力をされた人なのであろう」と認め、部下として働くのも長くて二年ほどと割り切るとともに、言動一つ一つに心を震わせることなく、時には心に空洞を作って、自ら心を「糠に釘」状態にして、対応しました。

 私は、これらのことを次のように考えるようにしています。

 彼らは大きな深い穴の中にいると。そして、大きな声で叫んでいる。時にその言葉は人を傷つけることもある。また、耳を澄ませば、助けてという言葉にも聞こえる。しかし、自分もその穴の中に降りて、手助けしようとするのは、『しなやか』ではない。同じ穴の中にいて、もがき苦しむことになる。相手の言動を「やめろ」と言って、止められるならそんな簡単なことはない。だから、自分は穴の上にいて、ものの見方・考え方を柔軟にして、「しなやかに」に対応するのがよいと。

 しかしながら、強くなれないこともありますね。そんな時には「辛い」を声に出すことです。「辛い」思いを抱え込んでいけません。「辛い」と誰かに話すのです。ですから、理解者が傍にいてくれることも重要です。

 主に自分が被害的な立場になった時のことを書きましたが、自分も無自覚にそうしてしまっているかもしれないと考えることが必要です。相手を思ってしたことが、不快を与えているかもしれないのです。他者理解により、嫌な思いを回避するのと同様に、自己理解を十分にして、自分の考え方の傾向、ものの言い方の癖などを理解することによって、相手に嫌な思いをさせることが軽減できるのです。

 価値観が多様化する社会生活において、自分なりの正義感を持つ人と人がかかわる以上、嫌な思いをしたり、いじめと感じることはなくなりません。しかし、この嫌な思いをいじめとするか、「しなやか」に自分の生きる力の原動力にするかは、自分のものの見方・考え方です。「いじめはやめよう」と叫んでいても、いじめはなくならないのです。ならば、「いじめはなくならない」と強く認識した上で、自分のものの見方・考え方、そして、生き方の質を向上させていくことが、生産的で効率がよいと思いませんか。

 生きていれば嫌なことはあるのです。「しなやか」に行きましょう。強く正しく生きましょう。



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